昭和45年11月28日 朝の御理解
第100節『 めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというのではないか。
金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ 』
金光様の御信心は、うーん、子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ。ね。ただ目先目先のおかげの道ではない事が分かりますね。ただそのときその時に、まあ、金光大神、いわゆる御出現。この当時の事をね。たら、何処々の何々様、何処の何様と言うて拝むものを、さあ人間が、いわゆる悲しい時の神頼み的な信心が一般でありました。困った時のお願いをするといったような、えー、それがまあ当時の、まあ信仰だったわけです。
そういう中に金光大神は、子孫繁盛家繁盛の道を教えると、ね。えー、大変やはり進歩的だった訳ですね。道を教えると。ね。なら誰でも、家繁盛や子孫繁盛を願わないものは居ません。皆んな願っておる。そういう道があるとするならどうでもひとつ教えてもらわなきゃならん。分からして貰わなきゃいけない、という事になる。
そこで、えー、子孫繁盛の道とか、家繁盛の道とはどういうな事かと。これはえー、言うならば金光様の御信心が人間の幸せというかね、人間の幸福というか、えー、その、だけを願いとしておられる神様。そこに段々分からして頂くことは、私共が真実助かるというね、真実、子孫繁盛家繁盛の道を辿らして頂くということ、その道を辿らして頂くという事が、えー、親神様の御安心であり、親神様の御喜びであるということが分かる。
ただ、困った時に助けて貰うというような、例えばおかげでは、あー、神様、いわゆる親神様は御喜び下さらない。いよいよこのまま行きゃ子孫繁盛の道が頂けるぞと。家繁盛、子孫繁盛の道が開けるぞと。という例えば目途がつくというかね、時に親が安心。いわゆる親神様が安心して下さる。そこから開けてくるのが子孫繁盛の道であり家繁盛の道である。
例えば、これは子供、親と子の関係でも同じです。子供が、の養育という親の責任でもありますから、いろいろ育っておくてきにたてさせてもらい、学もさせ、仕事も覚えさせ、いおあかりもさせてね、まあ、家内ども呼んでやって、それで親はやれやれ安心とこう言う。まあ、あのまま行きゃ生活にも大丈夫だろうという所がね、親の安心であるようにです、やはり金光様の御信心さして頂いて、もうそこのところの体得が出来る神様の願いのそこんところを分からして貰うて、言うならば根本的なところ。ね。
ここに、めでためでたの若松様よと、いうならその若松なら若松が大地に根を下ろして、それが例えば隆々と栄えていくという。ね。ですから、もう根なしにはね、栄えないという事。
笑い話に、その、植木屋が、例えば枝ぶりの良い松を、ある人がこの松を買いたいと。ところが、この松は根が無いですち。ところが、人間ちゅうのは面白いもので、その根が無いちゅう程しなら尚買いたい。いわゆるまあ、この松は値段な付けられませんと。まあ聞いたらしいですね。だから、いくらかかったちゃよかけん分けちくれ。いや、こん松はもう根が無いですと言うたという話。根が無かった枝ぶりのよかとどんへし折ってきてから、こうそこに置いておっただけなんです。だからその、売る方はもう根が無いち言う。そら片一方聞いた方は、そん値が付けられんごとよかつならなら買いたいと、まあ言うたと言う訳なんです。
信心もそうです。はあ、金光様の信心が素晴らしかち。ね。ほらもう家繁盛子孫繁盛の道を教えて下さって、もう家繁盛子孫繁盛のおかげを受けられると。ね。というてもです、ね、はたしてです、なら金光様の信心をさして頂いておる、その家族とか、その家庭がですね、はたして家繁盛しよるか。子孫繁盛になっていきよるか。
私は、その植木市(うえきいち)で根のない松を買うてきとるようなものだと思うんですね。いつの間にか、ちゃーん枯れてしもうとる。ね。根がないからですよ。ね。そんなら私は、その根ということは、何処の根本、いわゆる根本という、根本といや根の本(ねのもと)と書いてあるが、その根本、まあ難かしゅう言うなら、根本原理とでも言おうか。ね。
お道の信心の、いうなら根本原理という。ね。そこのところがね、私は分からにゃいかん。皆さんどうですか。根本原理が分かっちょるでしょうか、お道の信心の根本というところはどこになるか。
今日はご理解百節、一番最後のところ、まあ誰でも一番、まあここは総仕上げのところですよね、まあ言うならば。誰でも願って止まない。めでためでたの若松様よ。ほんとに祝い喜ばして頂くような心。同時にそれは枝も栄える、葉も茂っていく。しかもそれが子孫繁盛に繋がる。家繁盛も繋がる。そこで、ならこの教典の全てをです、ずーっと勉強して、これをだんだん、うーん、分からして頂いて、御理解百節のところの金光大神が教えて下さった家繁盛子孫繁盛の道を体得したかのようであってもです、ね、それだけでは、その子孫繁盛にはなっていない、家繁盛にはなっていないという事実が沢山あるんですから、いわゆる根のない松を買うてきとったようなものではなかろうかと思うてます。
そしてどこが根本、どこが根であらなければならないかと。そこで御理解の一番始めのところの第一節ですね。御理解第一節「 今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ 」と。 今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。いわゆる目を覚ましてからの信心でないからね、薄ら覚えに覚えとっただけではおかげにならんち。ただ一生懸命参った、修行しただけでは、いわゆる家繁盛子孫繁盛ということにはならないち。ね。だから、目を覚ますと、ならどのようなふうに目を覚まして、えー、いかなければならないかと。
私は昨日、まあそれこそ連れ連れにですね、ちょっとこう落書きをしとった。書いたですね。所々に書いたですね。皆さんあのー、皆さん漢字なら漢字のね、一番好きな字ちいうたらどんな字書きますか。あのね、好きずきがありますからね。私の一番好きな字は『土』という字が好きです。土という字。次には『松』という字が好きです。次にはね、この『礼』ですね。あの御礼を申し上げるという礼です。礼を略した礼が好きです。それから『愛』という字が好きです。もう私好きな字をここに、こう書いてみた。だから好きな字を書けって一番口にいうならやっぱ土という字を書くです。私は、もう何とも言えん、この土という字には、なんか魅せられるですね。これは自分に一番欠けておるものだからと思いますね。
今日は、御理解百節を頂かしてもろうて、ここはまあ、いつも頂くところだし、まあ一番まあ言うならば、金光大神が教えて下さることを本気で行じさえしていけば必ず家繁盛子孫繁盛の道が開けるのだと。まあお互いそう信じております。ね。ところがなかなか実際においては、なら親の代はそうだったけれども、子の代の時にはもう、もう信心が絶えておるといったような事実があまりにも沢山ある。どういうことであったのだろうかと。
それからね、今日の御理解百節は、どういうようなところから説かして頂くのであろうかと思わせて頂いておりましたらね、枝も栄える葉も茂ると言うからには、根がなからなければならないというところを、ね、今日は根本にして皆さんに聞いて貰っている訳です。ね。そうでしょうが、ただ、なら、どんなに素晴らしい枝ぶりが良いからって言ったって、それを途中から切ってきた物は、一時二時(いっときにとき)は、青々としとるけれども、栄えるという事にはならんでしょうが。芽は出らんでしょうが。ね。芽が出てきて、そこがいよいよ、枝も栄える葉も茂るという事になってくる為にはね、根本がなからにゃいかん。根がなからにゃいけん。ね。
そこでですね、例えばこれは植木に例えますなら、まずそこに、ね、一本のそんなら若松、その若松を大きな木に育てていく為に、まず何というても土が大事である。ね。言わば肥えた土が欲しい。ね。その土に根を下ろしていくのであります。そこで私が思うのは、なら自分の心がです、ね。大地のような土(どろ)のようなです、いわゆるおかげを頂いていくことをです、例えば沢山の入選の中から、感じ取らせて頂いて、まず自分の心を大事にしていくということ。いわゆる土のような心にならして頂くことの精進をしていくという事。ね。
次には、私はこの「松」の字、私の好きな字から、ここにヒントを頂いてから、まあ申しますなら、なら、松という字は、これもやっぱり根本は根本ですね、私共の信心の元をたずねますと。この松ということになってまいります。けれども、その松という字をね、例えば、木へんに公というここに書いてありますから、ね。そういう例えば豊かな土のような心でです、願うところがです、ね、言うなら天下国家の事ででも祈れれるような大きな心とでも申しましょうか、ね。または、豊かの心とでも申しましょうか。そういう豊かな心というのを、そういう心をです、私は養うていかなきゃいかん。ね。
まあ、次にこれは「礼」の字とか、「愛」の字書いてあります。おそらく十二月の御礼の焦点に…。じゃない。信心の焦点になるであろうと思うております、うーん…。「御礼のための精進」と。ね。だんだん信心が分からして頂いて、あれもおかげ、これもおかげ。言うならば、おかげの中にある私共を分からして頂いたなら、ほんとに有り難いなあというだけではなくて、その有り難いなあという、その有り難いと思うその心をです、その、御礼に現していく精進。
御礼のための信心。言うならば。と、いうようなことになるだろうと思いますが。ね。
そういう信心が身に付く、いわゆる感謝、えーいわゆる神恩報謝の心ですね。神恩に対して報い奉る精進。同時に私は愛の心。ね。これは、愛情がなからなければ物は育ちません。植木なら植木をボンと植えただけでは、放うたらかしとったらそりゃあ、あー、だんだんしこっていくかもしれませんけども、虫が付いたり、肥料が切れたりしておることにです、いつも心、心、そういう心が愛の心だと私は思う。ね。植木ひとつにでも、その愛情。お野菜一本の上にでも愛情を傾けなければ良いお野菜は出来ませんようにです、ね、愛の心が強うならにゃいけん。
愛の心が強い人はね、神様に通うですね。昨日の四時の御祈念の時にね、頂きましたから、ちょうど四時の時に参り合わせた方達にお話したことなんですけれどもね。えー、例えて申しますとね、えー、例えば昨日はちょうど日田の綾部さんがお参りしてあった。こげなふうで。それで昨日私は一言御理解頂いて、もうほんとに考えさせられますと言うて、まあ言うておられましたが。あちらはもう非常に、まあ、愛の心が強いのですね。もうどちらかと言うと愛情型である。ね。多過ぎるぐらいにある。気の毒な人を見ると、もうじっとしてはおられない。もう人が喜ぶならば、もうほんとに、あの、うーん、何でもかんでも、その、あげてしまいたい、といったたような心を持っておられる方である。ね。それが神様、それが教会の場合であってある場合なんかは、もうほんとにですね、もうそれをもうさあ実行しなければおられないというようなものを持っておられる。
この頃から、私の両親が着ておる布団やら、敷布団やらが御粗末だと思われたらしい。親先生のお父様、親先生のお母様と皆が言われるのに、こういう御粗末なお布団に休んでもらえちゃ、もう相済まん。それを思うたら、もう矢も立てもたまらん。帰ったらすぐ、その、小型のトラックに乗せて持って来られたらしい。もうそれこそ、何て言うですかね、えー、うーん、敷布団のゴムの敷布団の上に、とても上等の綿の入った敷布団。それに敷布。それに、えー、夜着。それから掛け布団と。もうほんとに、もう私は、あの、この頃両親の部屋に参りますと、その布団が敷いてありますいつも。ほんとに見てから楽しいごとある。布団が、私の両親の布団が、もうとにかく、こう思われたらもうそうしなければおられない、もう明日でよかけんちゅうこっちゃなか。もうさあ、もうそうしなければおられないというような、その、ものを持っておられる。私はこれは愛の心の発露だと思うですね。
ところがですね、例えば、あの、お道でいう真とか真心とかって言うのはね、あーほんとに、お寒かったでしょうと、例えば寒い時に挨拶をしたらね、その寒かったでしょうという時には、火鉢のひとつもそこに持って行ってやるのが真、真心というふうに言われとりますよね。寒かったでしょうと言うだけじゃ…、だけでもいいですよね。けど、それにもうひとつ火鉢でもそこに持って行ってやって初めて、その真が、真心で表されたというのはそういうことだと言われておった。ね。この次これをあげたいと思うだけでも、それは愛の心ですから素晴らしい。 それを実際に、もうさあと持っていってやる心は、もう真心だと。けれどもね、そこが人間なんだと。そういう生き方はね、大いにして不純なものがあったり、することがあるからね、その心をもうひとつブレーキをかけて、もう持って行ってあげたい心をじっと押さえてですね、確かめた上にしなけばいけないという御理解だった。
私はそれを頂きましてね、これは、私自身もそれをほんとに感じさせられることがたくさんあることを思います。ね。人が喜びさえすれば、はっと、こうしてやる。その心をもういっぺん押さえる力が必要なんです。ね。そして、自分の心の中に、いかにそれが愛の心であってもです、ね、言うならば、神愛。神様が感じられるような愛のところまでとは難しかってもです、そこまで高めてからの表すでなからなければいけないといったようなことを頂きました。
はー、こげな心でいったら親先生が喜びなはろうと、こういったらすぐこう表す人がいます。じつに素晴らしいことだと思います。けれどもそういう時に、もういっぺんブレーキをかけてみてです、果してほんとにこれが信心か、ほんとに親先生が喜ぶかとかと、例えば、なら、場合でもです、ここの御信者さん方、そういう方達が大変多いですよね。
この頃からある方が、私がお芋が好きだからというので、その、それを知っとられる方がね、途中で丁度、あの、ほっこり焼きを売って歩きよるでしょうが、あれに会うた。はー親先生ひとつ、このぽっぽしとるとば頂いてもらおうと思うてから、まあ買うてきた。ね。ところがもう親先生は御飯は済んどった。ところが、親先生がいやしいもんじゃから、それを「ほう、せっかくじゃけん食べよう」ち言うてから食べた。さあ、後は胸こけちからどんこんされじゃったと。というようなことに繋がったんではいけんちいうことですよ。ね。
そこにほっこり焼き屋に会うてもです、はあ、もう今頃は御飯も済んどられるのだから、親先生がいやしゅうあんなはるから、こう食べなさってから体ども悪うなしちゃいかんからと、こうぐっと抑えるような心が必要なんです。ほんと。ね。私はこれはもう一事が万事にですね、そこんところ。そういう心が、ほんとの意味においての愛の心。そういう愛の心がなからなければ、いわゆる今日私が言う、若松様よという若松を、まあ、土のような心の中に植えた、そういう愛の心をもって育てていくという、ね、それがなら、愛情型であって肥料をやり過ぎて、かえって葉が赤うなったちいうようなことではいかんでしょうが。ね。そのへんのところをです、ね、いわゆる礼の心をもっていつもね、調節をとって。ほんとに礼の心をもっての愛に繋がっておるものかどうかということなんですね。
いま少し、その、根本のところに触れてまいりましたですね。そういう信心内容がね、だんだん育っていく。そして御理解一節。ね。今天地の開ける音を聞いて目を覚ませという事。という事はね、もうギリギリこれが根本なんです。これが根なんです。それはどういうことかと言うとね、私共が、あの、いよいよ感じさして頂かなければならん、分からなければならないことはね、この神様のおかげを頂かなければね、立ち行かんのだという思いこみなんです。この神様のおかげを頂かなければね、それこそ一分だって、一秒だってです、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんだという、ここんところが私、金光様の御信心の一番根本、原理になるところだと思うですね。「めでためでたの若松様よ」というおかげを受けるということにおいての根本原理です。いわゆる家繁盛、子孫繁盛です。私一代じゃいかん。ね。子供の代、孫の代にでもです、ね、この神様のおかげを頂かなければ、もう絶対に人間な幸せになれなという、そこの思い込みがです、根本にならなければならないということです。ここんところの根本のところが、ね、私は、あー、薄いとかね、えー、まくがあればね、どういう素晴らしいことを、例えば覚えさして頂いても、行じさして頂いても、家繁盛、子孫繁盛には育っていかんと。
今天地の開ける音を目を覚ますと、そこにはいろいろな悟り方がありましょう。けれども、今日は私は御理解一節を、御理解百節に結び付けてですね、いわゆる、めでためでたの若松様という、その若松様が植えらた。ね、。しかもそれが枝も栄える葉も茂るものになっていっとく為にです、その過程においてです、土とか松とか礼とか愛とかというね、字を使って聞いて頂きましたですね。
それは、ただしそれを育てていくということの過程なんです。ね。なら、いよいよこの御理解百節の、いわゆる根本になるものが、いうなら金光様の御信心の、まあ私は、うーん、根本原理とでも言うても差し支えなかろうと思いますがね。この神様のおかげを頂かなければ、この神様のおかげを外れたら人間は一分だって、一秒だって生きておることさえ出来ないということなんです。その事実を踏んまえての信心でなからにゃならないと。自分の家は金光様の信心を外れたら、もう絶対おかげには、幸せにはなれないという思い込みなんです。ね。だからそれほどの強い思い込みだからです、これを子供に伝わらんはずがない。親がそれだけの強い思い込みを持っておるならばです。ね。これはもう、どれだけの沢山な財産を譲るということよりもです、このことを譲るということなんですから、それは、もう親が問題は、親自身がそれをほんとうに思うておるという事なんです。思い込んでいるという事なんです。俺んところは、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだぞと。お前達がどれだけ頭が良かっても、どれだけ仕事が上手になっても、どれだけ健康であっても、この神様を外したら幸せにはなれんぞ、子孫繁盛には繋がらんぞということを自分が思い込んでおるということなんです。これが根本なんです。ね。
宗教の自由だから、親は金光教の信心を一生懸命するけれども子供達までも、いまで強制葉しないといったような先生がありましたね。以前。だからその先生に対して大変、私はもう激しい討論をしたことがあります。何十年前に。ほんとにそげな事でよかとですかち。金光様が有り難い、有り難いと言う、そんなら子供は自由でいいですかと。何々教に走ってもいいですかと。ね。私はそこへんがね、ひとつ、私この信心がひとつそういう意味での積極性がね、どうでも必要です。なら事実がそうなのですから。この神様のおかげを頂かんなら立ち行かんのですから。
それを自分の力、自分の努力のごと思うておるようなものがそこに混じっておるようなものでしたら、それが不純なものですから、ほんとのおかげになっていかん。もう思い、思い込むということ、そこのところを。それが根本になるもの。ね。そして例えば、土とか、ね、松とかといったような信心が、その過程においてなされて初めて金光大神は、子孫繁盛家繁盛の道を教えるということはですね、そういう根本になるところを教え、ただ習うた位なごとじゃなくてです、それこそ今天地の開ける音を聞いて目を覚ます、翻然として悟るということなんです。そうだということ。ね。
翻然としてそこが悟れる。そこが私は、いわゆる思い込みがいる、強うなるということになると思うんですね。翻然として悟る。ほんなこつ、この神様のおかげを頂かなければ、ほんとに立ち行かんのだという。ほんにね金光様じゃなかったちゃ何様でんよかがと。信心せんでんお前はあげん繁盛しよるともおるじゃねえかと。なるほどそうですけれどもです、それではしかしですね、いわゆる子孫繁盛ということになってこない、ほんとの。いわゆる本当の人間の幸せという事に繋がらないです。ね。儲けでたつがかえって仇にどんなるような事ですたい。ね。そういうことではなりません。今日は私はそこのね、えー、沢山の信心をしておる、金光様の信心をしておる人は沢山あります。けれどもね、根のない松を買うてきておるような、私は信心で一生を終っておるから子供に孫に伝わらんのではなかろうかと、私は、いうことを皆さんに今日聞いてもらったんですけどね。
果たして自分の信心には、そういう願いがあるかどうか。しかもその根を愛情をもって育てておるかどうかということをね、もういっぺん確かめて、ひとつこの百節に言うておられるようなおかげを頂きたいと思いますですね。 どうぞ。
入力者 末永 清和